サバ神社探究

サバ神社探究

sabatanサバ神社探究

このページは横浜市泉区和泉町在住なさっていた、故藤縄勝祐氏のご厚意により掲載されます。著作権は藤縄勝祐氏に帰属します。
「サバ神社探究」というQ&A形式になった資料です。
横浜市泉区和泉町に点在するサバ神社に関するものです。 じっくり読みたい方はPDFで提供していますのでダウンロードしてお読み下さい。
「境川流域のサバ神社」という地図もあります一緒にご覧ください。
(このコンテンツは横浜市泉区の町名変更以前に編さんされたもので、文中の住所は旧町名地番です)

「地図を見ていると、境川を挟んで横浜市の泉区あたりと藤沢市から大和市にか けて、サバ神社という名の神社がたくさん目につきます。使われている漢字がい ろいろなので余計に興味を増すのですが…

A 「そうですね。このことはすでに柳田国男も『石神問答』の中 で取り上げているのですが、実は『相模の左馬明神又は鯖明神』と 書き出してあるだけで、それ以上の追究はないのです。

「境川流域にサバという名の神社が12もある。いろいろ異説もあっ て謎が多い、とい っていましたね。きょうはその所をもう少し突っ 込んで…」

A 「まず使われている文字ですが、鯖を始めとして左馬、佐婆、 佐波、といろいろです。 ただこれらの文字も、現場に行ってみる と偏額と標柱とで違っていたり、神社本庁に登 録されている名称 や新編相模風土記稿の上の文字とが違っていたりします」

「最初からつまずきますね。で、所在地は?」

A 「境川西岸に6社、東岸に6社、計12社で、次のとおりです。そ のうち、例の“相模 七鯖”として知られている神社には★印をつ けておきました。異論もありますが…。
境川西岸
★  鯖 神社   大和市上和田字久田 1168
左馬神社   大和市下和田字上の原 1110
七ツ木神社  藤沢市枯薮 1128
鯖 神社   藤沢市今田上原 201
左馬明神社  藤沢市西俣野字御所ヶ谷
佐波神社   藤沢市石川 141

境川東岸
★  左馬 社   瀬谷区橋戸3丁目 21
★  飯田神社   横浜市泉区上飯田町 2519
★  佐婆神社   横浜市泉区和泉町神田 4811
★  左馬神社   横浜市泉区和泉町中之宮 3253
★  鯖  社   横浜市泉区下飯田町宮の脇 1389
★  鯖 神社   横浜市泉区和泉町鍋屋 705

これらのうち、藤沢市石川の社は引地川流域です。
他は境川流域ですが、横浜市泉区和 泉町にある3社は、境川の 支流、和泉川の流域であり、この3社だけは、祭神は源満仲であ るといわれています。
他は源義朝です」

「なるほど、だいたいの全体像はわかりました。ところで七サ バ詣りという風習もあったとか?

A 「ええ、瀬谷の橋戸の社に立っている説明板によると橋戸の左馬社 を始め、和泉町神田の佐婆神社、中之宮の左馬神社、下和泉の鯖神 社、上飯田の飯田神社、下飯田の鯖社、上和田の鯖神社の合計七つ のサバ神社を参拝して回ると、悪い病気にかからないという伝承が あります。
ところが石川の佐波神社も『神奈川県神社誌』のなかで、七サバ の内の一社だったと主張していますから、七サバがどれとどれかは はっきりとはわかりません」

「ところで祭神に源義朝が出てきましたが?

A 「ええ、サバ神社は源氏に縁のある人々が頼朝の父である源義朝を祀ったものである、
サバとは義朝が左馬頭(さばのかみ)だったことからつけられた 名前だが、源家が滅び、北条の天下となったとき、北条の目に遠慮 して文字を変えたんだ、というのが定説です。
ちなみに左馬頭というのは朝廷警備の騎兵師団長といったところでしょうか」

「おもしろい説です。しかし、和泉川流域の三社つまり③の上 和泉の神田の佐婆神社、④の中和泉の中之宮左馬神社、それに⑥の 下和泉の鯖神社は、いずれも源義朝ではなく、源満仲を祭神にして いるそうですね」

A 「ええ、担当の宮司である宮本忠直氏もそのわけはわからないと首 をひねるばかりですが、私は誰かの誤りか伝承の伝え間違いだろう とにらんでいます。
つまり神社の祭神が誰かなどというのは、普通はそんなに意識しない。
とくにそれが農村の鎮守である場合には春の祭、秋の祭に人々が 集まり、酒を酌み交わし、神輿をかついで楽しめればいいのであっ て、誰が祀られているかを知っている人はごくわずかでしょう。
それがある日、突然、幕府なり政府なりから役人がやってきて調 査票を出せという。そんなとき誰だったっけ、それ源氏の先祖の あの人だよ、ええと、ええと… と言いよどむ。言っている方は 頼朝の父、源氏政権の直接の先祖である源義朝のことを言おうと しているのですが、聞いている方があせって助け船を出す。
源氏の先祖といえば源満仲だぜ。源満仲か?
こうして念を押された田舎の氏子総代は首をひねりながら答えるでしょう。
そうそうそんな名前の人でしょう。源氏の先祖なら間違いないですよ。
こうして源満仲説が出来上がったんだと思います。
ちなみに源満仲というのは、事実上の清和源氏の祖と見られる人 で、多田満仲(ただまんちゅう)とも呼ばれていました。
安和の変で活躍して頭角をあらわし、軍事貴族としての源氏の地位を確立した人です。
この人も左馬権頭(さばごんのかみ)に任ぜられていました。
騎兵師団長代行といったところでしょう

「祭神がそれで決まりなら、それでいいのでは?」

A ところが古代や中世にロマンを求める人たちはこれで満足しないのです。そこでこの神社の性格についていろいろの説が出てきました。
まず『境の神』説。
これは神奈川県に詳しい郷土史家の川口謙二氏の唱えたもので、境川の右岸、藤沢市や大和市、以前の高座郡は渡来人の多かった地域だ、それに対して左岸の旧鎌倉郡地域は在来人の地域だ、その境界をなすのが境川であり、サバ神社はその境を画する神なのだというのです。
それがさらに発展して、『捌く(サバく)』というのは分けること、という語源説や、信州からこのあたりまでが道祖神信仰の領域であり、境川から東の方は庚申信仰の地域である、道祖神信仰と庚申信仰という民俗信仰の二大形態がここ で分かれているのだというのです。
多くの人が無批判にこの説を取り入れていますが、私は賛同いたしかねます。
捌くという動詞とサバという名詞をむりやり一緒にしてしまうのは乱暴すぎますし、実際に歩いてみれば境川の両岸ともに、道祖神と庚申塔とが混在していることがわかります。
無理にわけることもないし、時代も成立理由も違うふたつの民俗信仰を平板の上に載せて 地域を分けるのは危険すぎるでしょう。
もともと渡来人が大磯に上陸、大山・日向薬師のふもとに足跡を残したあと、武蔵国の高麗郡に展開して行った過程や、高座郡・高倉などの地名が古代朝鮮の高句麗に出ていることは認められますが、だからといって境川が渡来人と在来人の境界だというのは、ちょっと無理だと思います

そのほかには?

A 田の神説、アボイド・マップ説など…。

田の神説というのは?

A 田の中にちょっとした塚や祠を作って祀るもの。
一般用の教科書でいえば、春、山の神が田におりてきて田んぼを守り、秋、収穫が終わると山に帰っていくという日本の民俗信仰の原点みたいなものがあるんですが、教科書を別にすると、どうもこのあたりでは田の神様を祀っていたらしい形跡がない。
関西の人にこの話をすると、ああ、あの田のかんさん…、といった調子で実になれなれしい。
どうも関西中心の民俗ではないでしょうか?

「アボイド・マップ説とは?」

A 「横浜市で浸水の危険のある場所を水色に塗った地図を作ったんです。そうするとこのサバ神社がその輪郭線の上にきれいに分布している。
中之宮左馬神社の神楽殿に半鐘が吊り下げられているのを見た宇都宮暁子さんという方が『水辺からのレポートⅡ』に書いている説です。
つまり、境川が氾濫したときの水害よけに祀られたのではないかというのですが、私はこの説は読みすぎだと思います。
境川に限らず、相模の古社には梵鐘や半鐘を吊り下げているのは決して珍しいことではなく、どこにもあるんだということは少し歩いてみればすぐわかります。
氾濫の外郭線に載るというのは、谷戸田の開発にともなって、それを見下ろす位置である河岸段丘に作られた以上、当然のことです」

「ではいわゆる農村の鎮守という以外になんら特別に付け加える点はないと?」

A 「いや私も郷土史や郷土史的ロマン大好き人間ですから、まだ付け加えることがないわけではありません。
サバという言葉にどんな意味があるか? これをいろいろな本などで引いてみるとたいへんなものです。
まず加藤巳ノ平編『旧国・県名の誕生』という本によると、現在の山口県、昔は周防と呼ばれていたわけですが、その中に佐波(さは)郡というのがあった。
そして国府は佐波郡佐波令(さばりょう)にあった。
また、古い記録に、娑磨・沙磨・娑婆・佐婆などの郷名が出てくるがおそらく「さば」と読んだものであって、この「さば」が「すは」に転じ、周芳、周防と変わっていったものであろうとする説もあると書いています。
丹羽基二著『地名』によると『さば 佐波に当てる。砂礫土、平地という』とあります。
地図を見ていると埼玉県栗橋町に佐間、大利根町に佐波という地名があります。
佐波郡という郡名もありますが、この郡名は佐位郡と那波郡の合成地名だというから、ここからは除くべきでしょうが…。
『日本書紀』の雄略天皇紀には、『娑婆の水門(みなと)で戦う』という記載がありますが、小学館版『日本古典文学全集・古事記、上代歌謡』の欄外注によると『このサバは備後国沼隈郡(広島県松永市)か、あるいは周防国佐波郡佐波(山口県佐波郡佐波)付近の 港か』としています。
このほかにも地名辞典を引くと、滋賀県近江八幡市に佐波江町、静岡県の函南町と三島市にまたがってかつて佐婆郷というのがあったそうです。もちろん福井県にも鯖江という市がありますが…」

「地名を離れて普通名詞では?」

A 「岩波・古語辞典で『さば』を引くと次のようにあります。
さば【生飯・散飯・三把・三飯】《「生飯」の唐音 サンパンの略》日常の食膳の飯の上部を少し取り分けて、訶利帝母、即ち鬼子母神、その他もろもろの鬼神に供する飯。普通、屋根などにまいておく(以下略)  これはいまでも残っている地方もあるようですよ」

「それがなにか関係が?」

A 「柳田国男氏の論文に『鯖大師』というのがあるんですが、その最後に次のようにあります。
私の大胆な当て推量といふのは次の如くである。いわく、海岸の住民が魚を捕って、これを内陸の農産物などと交易に行くのには、昔は境の神を祭り魚を供へる風があった。
その場所はたいてい道の辻、森の下、その他ある特別な感じを起こすような隘路などで、そこには魚を載せるための石がおかれ、それがまた霊地の目標ともなって…(以下、中略…)   山間に交易を求めに行く浜の人たちが、鯖を供へて通る習俗は夙にあったのかも知れない。
なほその魚が必ず鯖であったといふ点にも、きっと何等かの隠れたる意味があると思ふが、それは又他の折に考へて見ることにしたい。
これを読んでいるとき、私は下和田の神社の鳥居付近の情景が自然と頭に浮かんできたものでした。
それ以上なんの証拠もあるわけではありませんが…  今でこそ境川はなんの変哲もない内陸の小さな川ですが、昔は江ノ島からこの川を遡っていく内航船の航路だったんじゃないでしょうか。
いずれにせよ、サバを単に左馬頭の意味と考えない人にとっては見落とせない観点だと思います」

「魚ヘンの鯖についてほかには?」

A 「そういえばお盆というのは、そもそも親に対して一年のお礼をいう意味で、鯖を贈ったものである、という説もありますよ。法政大学教授で民俗学に詳しい永田久氏の説です」

「他の地方でもサバ神社というのはあるんですか?」

A 「高知県に行くとサバイもしくはサバエと読める神社、例えば作倍とか佐婆恵とかという漢字をあてるのですが、これが三三社も存在します。これは西日本での田の神である『さんばい』がなまったものであろうと想像されていますが、いずれも祭神も由緒も不明な小さなほこら程度のもので、周りを田に囲まれている場所に建っていることが多いようです。
神奈川県高校地理部会編の『神奈川の川(上)』や、日本地名研究所編の『藤沢の地名』では、これが境川流域のサバ神社のもとと考えているようですが、私は賛成できません。
高知の田の神としての祀り方と、わが境川の祀り方とは、ほとん ど共通点が見られないか らです」

「ではその他は?」

A 「柳田国男氏は前記の『石神問答』に追記して次のように書いています。
サバ神の式(注、延喜式のこと)に見ゆるもの

伊豆那賀郡   佐波神社二座
常陸多珂郡   佐波波地祇神社
これは三代実録貞観元年四月廿六日の佐波神と一なるべし
丹波多紀郡  佐々婆神社

つまり延喜式神名帳を見ると、伊豆には佐波神社がある、常陸多賀には似た名前の佐波波神社というのがある、丹波には佐々婆神社というのもある、ということでしょう。
もしかしたら、高知県か山口県にあったサバ神が黒潮に乗って北上し、いったん伊豆に上陸、そこから更に旅を続け、主力部隊は江ノ島から境川を北上、各地に谷戸田を開発して定着した。
一部は更に遠く、常陸の海岸に漂着した、などと考えると、正に歴史ロマン、 胸が高鳴ります。
そこで西伊豆町の教委に手紙を出したんですが、結果はノー、佐波神社は『サワ』と読むこと、祀られている集落の名は沢田(さわだ)ということ、西国からの遷座説はないこと、などが回答でした。
また、北茨城市からも回答がありました。それには市内の上小津田と大津とに佐波波地祇神社があり、上小津田のは佐波明神と称していたようですが、やはり関係なさそう、大津の方は大宮六所明神とか大宮神社と呼ばれることはあっても、サバ神社と呼ばれたこともなく、まして相模のサバ社とは縁がなさそうです。
両社とも創立は古く、祭神も天日方奇日方命という珍しい方を祀っているので、いわゆる古代常陸の開拓神ではないかと思われます」

「すると黒潮漂流説は否定された?」

A 「そうですね。やたらに想像をたくましくするのは正しい態度とも思えません」

「石川の佐波神社の裏山が鍛冶山と呼ばれていることから、金属神説を唱える人もいますね?」

A 「ええ、配祀している祭神に稲荷が多いことからも注目されているのですが、これは無理でしょうね。
鍛冶はむしろ大庭城の武器供給の基地として考えるのが正しいと思いますし、稲荷は何もサバ神社に限らずどこの農村の神社にも見られる傾向で、しかもその場合のほとんどは金属神としてでなく、農業神として祀られているのでしょう。
万が一、金属神をいうなら山口県の佐波神社の旧名が金切神社だったことを思い出す方が適切でしょう…」

「わかりました。あまり古くまで遡って想像することはやめましょう。ところでいつごろこの神社群は出来たのですか?」

A 「そう、それが問題なのに、もろもろの説をたくましくする人々はまだ、誰も注意してないのです。  私の調べた所では次のようになりました。

①橋戸 左馬社 古宮の地から天保年間に移転。
②上飯田 飯田神社 延応元年(一二三九)に地頭に復した飯田三郎能信が奉幣したとの社伝があるが、それ以外は不明。寛文年間(一六六一~)に現在地に移転したとの伝えもある。
③上和泉 佐婆神社 寛文年中(一六六一~)もしくは慶長年中(一五九六~一六一四)と伝える。
④中和泉 左馬神社 源家隆盛のころの勧請と伝える。寛永二年(一六二五)以降、松平氏の崇敬を受ける。
⑤下飯田町 鯖神社  飯田五郎家義の勧請? 一説には小田原北条時代、川上藤兵衛の勧請。天正一八年に筧為春の崇敬を受ける。
⑥下和泉 鯖神社  慶長年中(一五九六~一六一四)、清水・鈴木の両氏が氏神として勧請。
⑦上和田 左馬神社 宝暦一四年(一七六四)名主渡辺兵左衛門らが建立。
⑧下和田 左馬神社 寛文十年(一六七〇)に地頭辻忠兵衛により勧請。
⑨高倉 七ツ木神社 文禄年中(一五九二~一五九六)に渋谷義重の崇敬を受ける。
⑩今田 鯖神社 元禄一五年(一七〇二)当地住人井上瀬兵衛が発起造立。
⑪西俣野 左馬明神社 不明。
⑫石川 佐波神社 慶長一六年(一六一一)ころ創建。一説では戦国末期石川六人衆により勧請。

こうして見ると、年号がはっきりしているのはやはり江戸時代初期、慶長・寛文・寛永・元禄などであることがわかります。それ以前の縁起はどうも信憑性に乏しい。いわゆるご当地ソング、創作の匂いがします。
もともと農村部で農民によって護持されてきた神社というのは、あまり古いものはない。支配階級や領主クラスの武士が直接に護持していたなら別ですが、そうでないものは、江戸時代に入って平和が続き、生活が安定してきてからの話であって、それ以前に遡るのはかなり難しいのです。
全体を見て感ずるのは、造立した人間がせいぜい地頭か旗本、後は名主か郷士といったところでしょう。
平和な江戸時代の農村を思い浮かべさせられると感ずるのは私の我田引水でしょうか」

「なんだか急にがっかりする話です。でもそうかも知れませんね。ところでサバ神社のことを論じている本の名をいくつか紹介してもらいましたが、そのほかにもありますか?」

A 「分区以前に戸塚区役所が発行した『ガイドブック・戸塚の散歩みち』や『戸塚区郷土誌』、泉区役所発行の『いずみ・いまむかし(泉区小史)』などがあります。
市販の本では先にもあげましたが、神奈川県高校地理部会編・神奈川新聞社発行の『神奈川の川(上)』、川とみず研究会編の『水辺からのレポートⅡ』、230新聞社発行・小寺篤氏の『鶴見川・境川、流域文化考』などがあります。先にあげた川口謙二氏のものでは東京美術の『路傍の神様』なんかが代表的、ほかにもたくさんありますが同工異曲です。
準公認といった本としては中和田小学校創立八〇周年記念誌『中和田郷土誌』、瀬谷区の郷土史家古川甫氏の『瀬谷区郷土史』があり、公式本としては神奈川県神社庁発行の『神奈川県神社誌』などがあります。
これらの中のいくつかは絶版になっているのもありますから、どうしても読みたければ図書館を訪ねるなどの努力が必要になります。
古いものでは江戸幕府の仕事である『新編相模国風土記稿』、明治始めのものとしては『皇国地誌』という公式のものがあります。
筑摩書房刊の『定本・柳田国男集』はぜひ関係部分だけでも目を通す必要があるでしょう。 先にあげた『石神問答』の部分のほかに、『民謡覚書』の中の『田植唄の話』や、『年中行事覚書』のなかの『サンバイ降しの日』、『昔話覚書』の中の『鯖大師』などに参考になることが触れられています。
雑誌論文では相模民俗学会の『民俗』第一〇八・一〇九号に鈴木通大氏が『サバ神社について』と題する論文で今までの諸説を要領よくまとめています。
『市民グラフ・ヨコハマ五五号(昭和六三)』にも小論文が載ったことがあります。
福島さんという方の記名入りですが、その中に『正平七年(一三五二)正月二日、足利尊氏が相模国和田・深見の両郷と俣野彦太郎入道の跡の地を、南宗継にあてがっているところをみると、和田・深見・俣野という地域は一つのまとまりを有していたと推定してよいと思われる。おそらく源義朝と 平安末期に主従関係を結んだひとまとまりの武士団があり(俣野・飯田氏と思われる)、そこからサバ神社がこの地に集中してできたのではないか、と推定される』と、ややユニークな見解を出していますが、残念なのは和泉町の三社に触れていないことです。
そのほか大和市教委のレポート『下和田・上和田の民俗』、藤沢市教委のレポート『藤沢の民俗』、神奈川県立博物館の『境川流域の民俗』などにも目を通しておきたいものです」

「すさまじい程の数ですね。それでも結論は出ていないのですか?」

A 「ええ、何といっても地域がマイナーですからね。民間の同じ名前 をもつ神社の分布の問題は実はまだ他にもたくさんある。
そのほとんどがわからないのです。埼玉・東京の氷川神社、横浜 の杉山神社を始め、何十社とありますよ。あなたも調べてみて下さ い」